昨日8月6日は、広島原爆の日であることは、皆さんよくご存知と思います。
広島原爆投下の7時間前の8月6日0時5分から0時47分まで、B29、64機により、
当時の美須賀小学校校庭を中心とする中心市街地を目標として大量の焼夷弾(M69小型焼夷弾9万発以上)のほか、
通常爆弾、破砕集束弾を混ぜて投下しています。6日未明にかけて大火災が発生し、中心市街地の約8割が灰燼と帰しました。
死者482人、全焼8212戸、罹災者34200人
その日の8時過ぎ、快晴の青空の下、途方にくれる被災者の中には、
西の空の異常な閃光や崩れたキノコ雲を見て不審に思った方々もいました。
今治空襲から7時間後、広島に原爆が投下され、9日後、8月15日終戦を迎えました。
本日、一日遅れですが、別宮山南光坊山門脇にある今治市戦災の碑にて、追悼して参りました。
この碑は今治市の戦災を記録する会が建立され、ブログの空襲の内容は今治市戦災を記録する会の資料からです。新居田大作会長様本当にご苦労様です。
戦争は私の人生に大きく関わってます。
昭和6年生まれの父務は、終戦当時14歳でした。
飛行予科練習生(予科連)の募集に応じ、現在の東温市にあった見奈良滑空訓練所で、
グライダー(通称赤とんぼ)による飛行訓練してました。
昭和19年になると特攻隊員の募集が始まり、ほぼ全員が希望したそうです。
訓練が終わると、爆弾を抱えて空母に突っ込む特攻隊員になると決めていたそうです。
グライダーの滑空訓練に明け暮れる中、終戦を迎えました。
もう少し戦争が続いていたら、務はこの世にいなく、もちろん私も存在しませんでした。
間もなく、終戦記念日を迎えます。
改めて戦没者を追悼し、平和を祈念したいと思います。
明日で平和の祭典の東京オリンピックが閉幕します。
明日の閉会式は、心に刻みたいと思います。重松建設では
明日は特別休暇で全社員お休みを頂いてます。