先代創業者務より継続は力なりと薫陶を受けました。「継続は力なり」の言葉は、毎日書いてる10年日記の表紙にも記してます。その「継続は力なり」の言葉は、久留島武彦氏が座右の銘にし、人々に伝えた言葉と知りました。
まず、久留島武彦氏を紹介します。久留島武彦氏は、日本のアンデルセンと呼ばれ、明治・大正・昭和の三代にわたって、信じ合うこと、助け合うこと、違いを認め合うことなど、人が人として共に生きていく上で必要な教えを、楽しいお話にのせて子どもたちに語り聞かせた教育者です。
次に、久留島家を紹介します。久留島家の先祖は、日本海上兵力の起源、瀬戸内海にあるわが今治の来島を拠点した村上水軍の一族、来島氏です。関ヶ原の戦いでは、毛利輝元と共に西軍の石田三成に協力して伊予から明石海峡を経て出撃し、江戸から尾張、関ヶ原へと西下してくる徳川方の海上輸送経路を断つ功を上げた。しかし、戦いの結果、西軍が敗れため、長きにわたり治めていた伊予の所領を、没収され、海のない豊後国森(現・大分県玖珠郡玖珠町)に移された。その後、二代藩主通春が姓を来島から久留島に改めます。改姓の理由は、前年の大阪の陣における豊臣氏の滅亡に伴い、豊臣大臣であった過去を断ち新たに出発することを幕府に示した、また玖珠に久しく留まるといった決意の表明と言われてます。その後、久留島家は血筋を絶やすことなく、一万二千五百石の小大名として幕末まで存続しました。
改めて、久留島武彦氏に戻ります。武彦氏の父、久留島通寛は、森藩十代藩主通明の弟です。その長男として、明治七年、豊後国の森陣屋でうまれたのが、武彦氏です。武彦氏は、殿町一番地のお屋敷の若様と呼ばれていました。子どもの頃は牧畜業を夢見る少年でした。中学の時、地方の高校としては珍しくアメリカから英語の教師として招来されたサミュエル・ヘルマン・ウェンライト氏に出会い、英語やキリスト教を学んでいくなかで自分の夢を伝えると、「牛や馬ではなく、人間育てる人になってください」と教えられ、児童教育を目指すことになります。
先代創業者務は、今治市大島泊の出身です。もしかしたら、村上水軍の末裔かと思ったりします。継続は力なりは、務を応援する言葉だったのではないかと。
それでは、最後に。どのようにして継続は力なりの言葉が出来上がったのか。武彦氏は、世界一周旅行でお世話になったトーマス・クック社のクローソン氏から教えられた「考えは力なり」という言葉を機会あるたびに口にしました。しかしある時、「どんなに良い考えを持っていても、継続しない考えは役に立たない」ということにふと気付いた。それから武彦氏は、「継続は力なり」を自分の座右の銘にし、人々に伝えるようになりました。
私も今回が初めてのブログです。継続は力なりのはず。